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2010/02/05

小さな通信使行列が田舎町を行進

2010年1月31日の西日本新聞Web版に「日韓友好の歴史 歩いてPR 福津市 市民団体韓国衣装まとい」と題された小さな記事を発見した。

福岡県の福津市という町で「福津・慶州文化親善交流会」と名乗る市民団体が30日、朝鮮通信使が同市に宿泊した史実を広報するため、韓国の民族衣装を着て市内を練り歩くイベントを行ったと記事は言う。

記録によると、同市沖合いに浮かぶ相島という小島に朝鮮通信使が数回宿泊したことがあるそうで、同団体は昨年3月にも、この史実を記した石碑を島の対岸に設置するなどの活動を行っているらしい。

この日は、チマ・チョゴリなどを着た同会メンバーと関係者計15人が、韓国の楽器を鳴らしながら某所から石碑までの約2キロを練り歩き、市民たちに通信使来訪の史実をアピールしたとのことである。

だからなんなの…という感じはするが、田舎の街道をたった15人の通信使行列が行進する侘しい様を想像すると、あまり意地悪なことを書く気にもなれない。また突っ込みを入れたくなるような大嘘や誇張も記事内には見当たらなかった。

通信使来貢400周年記念の頃と比べると「先進文化を日本に伝えた」的な嘘を書くアホ記者もめっきり減っているようで結構なことであるが、せっかくなので一応突っ込みを入れておく。

記事には"日韓両国の平和外交を象徴するこの史実を記した石碑" と あるが、朝鮮通信使という名の朝貢使派遣のどこが「平和外交を象徴する史実」なのか。

朝貢とは下位国が上位国に貢物をして恭順の意を示すことであり、軍事力を背景にした恫喝がその裏にある。秀吉の軍勢にボロボロにされた李氏朝鮮にとって日本は脅威だったのだ。

対等な平和外交なら日本からも朝鮮王の就任を祝って使節を送らなければならないが、そんな事実は存在しない。また通信使たちを福岡城下ではなく沖合いに浮かぶ小島に宿泊させたことを「隔離」と捉える見方もあるようだ。

相島は中国大陸と九州を結ぶ航路の要衝にあたり、豊臣秀吉旗下の武将たちが朝鮮征伐に向かう途中立ち寄り、島の観音像に戦勝を祈願したことでも有名で、現在も「太閤潮井の石」という史跡が残っているそうである。

記事によると件の市民団体はこの島を「通信使の島」と定義付けたいようだが、通信使来訪などという些細な歴史上の一エピソードでもって、相島の歴史を矮小化することには反対だ。相島は「朝鮮征伐勝利祈願の島」でもあるのだから。

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