2013年05月17日の毎日新聞に朝鮮通信使に関するエッセイが載っていたので弄ってみたい。
「秀吉後の日本は朝鮮通信使で関係改善。日朝・日韓も『戦争は罪悪』の観点で関係改善を」という長いタイトルだが、筆者は歴史の専門家ではなく、市立中学の民族学級講師という職歴を持つ在日のNGO職員であるらしい。
朝鮮通信使と縁の深い地方を訪ねた筆者が、通信使と日本の関係に思いを馳せながら、現代の日韓・日朝関係を語るといった構成になっている。
ちなみにこのエッセイ、突っ込み所や違和感のある部分が非常に多いのだが、すべてを指摘していてはキリが無いので、とりあえず代表的部分だけを取り上げて論じてみたい。以下引用。
"この一行を日本への朝貢使節団だと捉えている人がいるが、それはまったくの誤解で、通信使の接待は幕府、沿道の藩が国家的行事としてとり行ない、その経費捻出のため庶民に増税が課せられた。 いずれも徳川将軍が大君、日本国王として丁重に対応している。"
筆者は「朝鮮通信使を朝貢使節と捉えるのはまったくの誤解である」と書いているが、なぜ「まったくの誤解」なのか根拠が "まったく" 示されていない。
もしかして「増税してまで豪華に接待し、将軍が丁寧に対応したのだから朝貢使節ではない」と言いたいのかもしれないが、そんなことは「まったく」根拠にはならない。
朝貢使だろうが冊封使だろうが、他国からの正式な使者であれば丁寧に接するのは当たり前。また当時の外交は見栄の張り合いという側面もあり、接待も豪華なものになりがちだ。さらに言えば天下の将軍様のゲストなのだから、各藩としても粗略に扱えるわけがない。
ちなみに国内の旅費は日本側の負担だが、大使節団を組んで日本に渡航するまでの経費は朝鮮側の負担である。朝貢であろうとなかろうと、多大な費用を費やして遠路はるばるやってきた客人であることも考慮に入れるべきだろう。
この半島系のNGO職員氏は、贈り物を山ほど抱えて遠路はるばるやってきた客であっても、朝貢使のような立場が下の者なら粗略に扱ってもいいと考えているのだろうか。朝鮮儒教ではそれでOKなのかもしれないが、日本には今も昔もそんな無慈悲な思想は存在しない。
ただし、各藩から丁寧に扱われたとは言っても、大勢の一般庶民が二階の窓から通信使行列を見下ろしている絵などが残っており、相手が大名行列なら決してそんなことは許されないことから、少なくとも大名以下の扱いであったと推測できる。
またかの有名な「ニワトリ泥棒の絵」にあるように、沿道の住民とトラブルを起こして百姓町人からボコボコにされることもあったが、警護の侍たちは見て見ぬふりをしていたという文献も残っている。
これ以外にも、朝鮮通信使が朝貢使節に準ずる低い立場であったことを示す資料は多く、また大名に謁見する場合などと比べて、将軍がことさら通信使には「丁寧」だったという資料は見たことがない。あるなら教えて欲しいものだ。
なお冒頭にも書いたように、このエッセイには他にも首をひねりたくなる部分が多いのだが、おそらく理由は、韓国の歴史観を基に書かれているせいだと思われる。
「歴史は日本では学問だが、中国では政治であり、韓国ではファンタジーである」などとよく揶揄されるが、この筆者も韓国のファンタジー教科書で朝鮮通信使について学んだのに違いない。「いったい何を根拠にそんなことを書いているのか」と疑問に思う部分が多いのはそのせいだろう。
毎日新聞もファンタジーを元に歴史を語るエッセイなど載せてもらっては困りますね。
2014/01/18
2011/11/07
やい倭人、ウリの子供に会わせろコラ
地方紙の大阪日日新聞に朝鮮通信使関連の記事を見つけた。
どうでもいいような話だが他にこれといったネタも無いので少し弄ってみたい。
「大阪あそ歩」というタイトルの連載記事で、小さなツアーを組んで大阪市内の旧跡を訪ね歩くという企画のようだが、今回は九条という地区を紹介している。
そこには朝鮮通信使の墓があるのだという。眠っているのは金漢重というもので、旅の途上で病に倒れ、九条地区の寺で養生することになった。
彼には二人の子供がいたそうで、"望郷の念にかられて子どもに会いたいとすがる金の姿に、大坂の医者たちが心を痛め、同じ年頃の日本の子ども2人を呼び、わが子に見立てて看病させた" そうである。
当時の交通事情や出入国制限を考えれば、たとえ大名クラスが奔走したとしても、朝鮮から子供を呼び寄せるなど相当に困難なことだろう。
一国の外交官ともあろうものが、ただでさえ病気で厄介をかけておきながら、そんな無理難題を吹っかけて他国人に「すがる」とは、節度に欠けるというか情けないというか、やはり彼らは昔から感情のコントロールが苦手だったのかと言いたくもなる。
自分の立場もわきまえず無理難題をふっかける通信使と、願いを叶えてやろうと苦慮する日本人医師――なんとなく現代の日韓関係にも通じるものがあるエピソードではなかろうか。
どうでもいいような話だが他にこれといったネタも無いので少し弄ってみたい。
「大阪あそ歩」というタイトルの連載記事で、小さなツアーを組んで大阪市内の旧跡を訪ね歩くという企画のようだが、今回は九条という地区を紹介している。
そこには朝鮮通信使の墓があるのだという。眠っているのは金漢重というもので、旅の途上で病に倒れ、九条地区の寺で養生することになった。
彼には二人の子供がいたそうで、"望郷の念にかられて子どもに会いたいとすがる金の姿に、大坂の医者たちが心を痛め、同じ年頃の日本の子ども2人を呼び、わが子に見立てて看病させた" そうである。
当時の交通事情や出入国制限を考えれば、たとえ大名クラスが奔走したとしても、朝鮮から子供を呼び寄せるなど相当に困難なことだろう。
一国の外交官ともあろうものが、ただでさえ病気で厄介をかけておきながら、そんな無理難題を吹っかけて他国人に「すがる」とは、節度に欠けるというか情けないというか、やはり彼らは昔から感情のコントロールが苦手だったのかと言いたくもなる。
自分の立場もわきまえず無理難題をふっかける通信使と、願いを叶えてやろうと苦慮する日本人医師――なんとなく現代の日韓関係にも通じるものがあるエピソードではなかろうか。
2011/10/21
通信使 通信使とて 暮れにけり (意味不明)
最近、中日新聞石川県版に「朝顔や つるべとられて もらい水」などの句で知られる俳人・加賀の千代女に関する連載記事が載っている。
千代女は藩主の依頼で、いくつかの掛軸と扇子に自作の俳句を揮毫し、来貢中の朝鮮通信使に贈呈したことがあるらしい。
それらの掛軸や扇子が今でも韓国に残されているかどうかについて記事は触れていないが、残っていれば大きなトピックであるから言及されないはずはなく、そう考えるとやはり残存してはいないのだろう。
中国文化絶対主義であった当時の朝鮮人たちに、日本文化の粋である俳諧の価値など分かるはずもなく「もっと金目のものをよこせニダ」などと内心苦々しく思いながら受け取って、帰国した後も粗雑に扱ったのかもしれない。
しかし幸いにも日本側にどのような句を送ったかについての記録が残っており、それを元に中日新聞石川県版が週に四回数句づつ紹介しているようである。
千代女は藩主の依頼で、いくつかの掛軸と扇子に自作の俳句を揮毫し、来貢中の朝鮮通信使に贈呈したことがあるらしい。
それらの掛軸や扇子が今でも韓国に残されているかどうかについて記事は触れていないが、残っていれば大きなトピックであるから言及されないはずはなく、そう考えるとやはり残存してはいないのだろう。
中国文化絶対主義であった当時の朝鮮人たちに、日本文化の粋である俳諧の価値など分かるはずもなく「もっと金目のものをよこせニダ」などと内心苦々しく思いながら受け取って、帰国した後も粗雑に扱ったのかもしれない。
しかし幸いにも日本側にどのような句を送ったかについての記録が残っており、それを元に中日新聞石川県版が週に四回数句づつ紹介しているようである。
2011/02/17
東京新聞がまたもや通信使の功績を捏造
かつて「なあに、かえって免疫力がつく」などと馬鹿なことを書いて寄生虫の卵入り韓国産キムチを擁護した東京新聞が、またもや馬鹿をやってくれました。
今回俎上に乗せるのは2011年2月12日東京新聞web版に載った『江戸期の外 交の記録発見「朝鮮通信使」への接待の様子紹介』という記事である。
それによると朝鮮通信使とその饗応役を命じられた藩士との筆談の様子などが記された古文書が、茨城県の旧家で発見されたということで、その筆談の一部が記事中に紹介されているのだが、少し気になる部分を発見したので突っ込んでおこう。
"最後に与兵衛は「方殊(外国)の言は異なるも、詩情は是(これ)同じ」と残し、誠信外交に尽力したことがうかがえる。"
という箇所である。
なぜこの部分から「誠信外交」に尽力したことが窺えるのさっぱり分からないのだ。それ以外の部分を読んでもやはり分からない。おまえただ「誠信外交」と言いたかっただけちゃうかと突っ込みたくなる唐突さだ。
ちなみに「誠信外交」とは朝鮮通信使と関係の深い儒学者が唱えた「誠信交隣」から来ている言葉のようだが、ほとんどの読者は聞いたこともないだろう。そんな一般性のない四文字熟語を何の説明もなくサラリと書かれても困るのだ。
そして大きな突っ込み所は記事の最後にやってくる。
"<朝鮮通信使>(中略)豊臣秀吉の出兵で途絶えた交流の復活を目指した徳川家康が働きかけて実現し、日本の文化や学術に多大な影響を与えたとされる。"
多大な影響キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
馬鹿野郎、寝言は寝て言え。
ただまあ、数年前の東京新聞が「日本の文化や学術に多大な影響を与えた」と断言しているのに比べ、今回は「与えたとされる」となっており、ややトーンダウンしているところに若干の成長が見られると言えなくもない。
今回俎上に乗せるのは2011年2月12日東京新聞web版に載った『江戸期の外 交の記録発見「朝鮮通信使」への接待の様子紹介』という記事である。
それによると朝鮮通信使とその饗応役を命じられた藩士との筆談の様子などが記された古文書が、茨城県の旧家で発見されたということで、その筆談の一部が記事中に紹介されているのだが、少し気になる部分を発見したので突っ込んでおこう。
"最後に与兵衛は「方殊(外国)の言は異なるも、詩情は是(これ)同じ」と残し、誠信外交に尽力したことがうかがえる。"
という箇所である。
なぜこの部分から「誠信外交」に尽力したことが窺えるのさっぱり分からないのだ。それ以外の部分を読んでもやはり分からない。おまえただ「誠信外交」と言いたかっただけちゃうかと突っ込みたくなる唐突さだ。
ちなみに「誠信外交」とは朝鮮通信使と関係の深い儒学者が唱えた「誠信交隣」から来ている言葉のようだが、ほとんどの読者は聞いたこともないだろう。そんな一般性のない四文字熟語を何の説明もなくサラリと書かれても困るのだ。
そして大きな突っ込み所は記事の最後にやってくる。
"<朝鮮通信使>(中略)豊臣秀吉の出兵で途絶えた交流の復活を目指した徳川家康が働きかけて実現し、日本の文化や学術に多大な影響を与えたとされる。"
多大な影響キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
馬鹿野郎、寝言は寝て言え。
ただまあ、数年前の東京新聞が「日本の文化や学術に多大な影響を与えた」と断言しているのに比べ、今回は「与えたとされる」となっており、ややトーンダウンしているところに若干の成長が見られると言えなくもない。
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