夕刊紙系のニュースサイト「ZAKZAK」が朝鮮通信使について言及しているので紹介したい。
八幡和郎という評論家が書いた【日韓の深層】という連載で、最近流行りの韓国批判の記事なのだが、著者本人が「親韓派」を自称しているだけに、批判が生温くて爽快感に欠ける。
それはともかく、今回注目したのは以下の部分である。
"それから、江戸時代の日朝関係への間違ったとらえ方も、困りものだ。
李王朝から将軍交代の祝賀に訪れていた朝鮮通信使は「ある種の朝貢使節」というのが、日本側の認識である。「対等の関係だった」という指摘は、近代日本の外交をそれと対比して貶めるための虚構だし、何十年に一度の一方的遣使だけの交流が、平和で実りある善隣友好関係というのは笑止千万だ。
皇室や近代日本を貶めたい勢力は、思わぬ所に地雷を埋め込んでくるので警戒したいものだ。"
特に赤で示した部分は至言である。嬉々として通信使行列などをやりたがる自治体関係者や、それを伝える報道関係者は、この言葉をよく胆に銘じろと言っておきたい。
ただしかし、文中にある
"「対等の関係だった」という指摘は、近代日本の外交をそれと対比して貶めるための虚構"
という部分は初めて聞いた解釈だが、まったくピンと来ない。そもそも韓国側は「対等」どころか通信使の方が「上位」だったと考えている。
韓国の教科書には「江戸時代の日本に先進の文物を教えてあげた」と書いてあるくらいで、「朝鮮通信使は未開な日本民族を教化するために派遣されたインテリ集団であり、日本人たちは崇め奉って大歓迎したのだ」などと妄想している馬鹿が韓国では多数派なのだ。
韓国側はそのことを唯々誇示したいだけであり、「近代日本の外交を貶める」などいう深謀遠慮があるわけではないだろう。
以上はほんの一例で、どうもこの【日韓の深層】という連載には突っ込みたくなる箇所が多すぎる。韓国批判に見せかけた擁韓記事ではないかという疑いすら感じてしまう。
しかし、これまで通信使関連のイベントを批判的に論じていたのは、個人ブログやチャンネル桜くらいなもので、ZAKZAKのようなメジャーなサイトが"笑止千万"とまで言い放ったのは、それなりに画期的な出来事だったと言えそうだ。
ソース:http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20140601/frn1406010830003-n1.htm
2014/06/22
2014/01/18
朝鮮通信使は朝貢使節ではない?
2013年05月17日の毎日新聞に朝鮮通信使に関するエッセイが載っていたので弄ってみたい。
「秀吉後の日本は朝鮮通信使で関係改善。日朝・日韓も『戦争は罪悪』の観点で関係改善を」という長いタイトルだが、筆者は歴史の専門家ではなく、市立中学の民族学級講師という職歴を持つ在日のNGO職員であるらしい。
朝鮮通信使と縁の深い地方を訪ねた筆者が、通信使と日本の関係に思いを馳せながら、現代の日韓・日朝関係を語るといった構成になっている。
ちなみにこのエッセイ、突っ込み所や違和感のある部分が非常に多いのだが、すべてを指摘していてはキリが無いので、とりあえず代表的部分だけを取り上げて論じてみたい。以下引用。
"この一行を日本への朝貢使節団だと捉えている人がいるが、それはまったくの誤解で、通信使の接待は幕府、沿道の藩が国家的行事としてとり行ない、その経費捻出のため庶民に増税が課せられた。 いずれも徳川将軍が大君、日本国王として丁重に対応している。"
筆者は「朝鮮通信使を朝貢使節と捉えるのはまったくの誤解である」と書いているが、なぜ「まったくの誤解」なのか根拠が "まったく" 示されていない。
もしかして「増税してまで豪華に接待し、将軍が丁寧に対応したのだから朝貢使節ではない」と言いたいのかもしれないが、そんなことは「まったく」根拠にはならない。
朝貢使だろうが冊封使だろうが、他国からの正式な使者であれば丁寧に接するのは当たり前。また当時の外交は見栄の張り合いという側面もあり、接待も豪華なものになりがちだ。さらに言えば天下の将軍様のゲストなのだから、各藩としても粗略に扱えるわけがない。
ちなみに国内の旅費は日本側の負担だが、大使節団を組んで日本に渡航するまでの経費は朝鮮側の負担である。朝貢であろうとなかろうと、多大な費用を費やして遠路はるばるやってきた客人であることも考慮に入れるべきだろう。
この半島系のNGO職員氏は、贈り物を山ほど抱えて遠路はるばるやってきた客であっても、朝貢使のような立場が下の者なら粗略に扱ってもいいと考えているのだろうか。朝鮮儒教ではそれでOKなのかもしれないが、日本には今も昔もそんな無慈悲な思想は存在しない。
ただし、各藩から丁寧に扱われたとは言っても、大勢の一般庶民が二階の窓から通信使行列を見下ろしている絵などが残っており、相手が大名行列なら決してそんなことは許されないことから、少なくとも大名以下の扱いであったと推測できる。
またかの有名な「ニワトリ泥棒の絵」にあるように、沿道の住民とトラブルを起こして百姓町人からボコボコにされることもあったが、警護の侍たちは見て見ぬふりをしていたという文献も残っている。
これ以外にも、朝鮮通信使が朝貢使節に準ずる低い立場であったことを示す資料は多く、また大名に謁見する場合などと比べて、将軍がことさら通信使には「丁寧」だったという資料は見たことがない。あるなら教えて欲しいものだ。
なお冒頭にも書いたように、このエッセイには他にも首をひねりたくなる部分が多いのだが、おそらく理由は、韓国の歴史観を基に書かれているせいだと思われる。
「歴史は日本では学問だが、中国では政治であり、韓国ではファンタジーである」などとよく揶揄されるが、この筆者も韓国のファンタジー教科書で朝鮮通信使について学んだのに違いない。「いったい何を根拠にそんなことを書いているのか」と疑問に思う部分が多いのはそのせいだろう。
毎日新聞もファンタジーを元に歴史を語るエッセイなど載せてもらっては困りますね。
「秀吉後の日本は朝鮮通信使で関係改善。日朝・日韓も『戦争は罪悪』の観点で関係改善を」という長いタイトルだが、筆者は歴史の専門家ではなく、市立中学の民族学級講師という職歴を持つ在日のNGO職員であるらしい。
朝鮮通信使と縁の深い地方を訪ねた筆者が、通信使と日本の関係に思いを馳せながら、現代の日韓・日朝関係を語るといった構成になっている。
ちなみにこのエッセイ、突っ込み所や違和感のある部分が非常に多いのだが、すべてを指摘していてはキリが無いので、とりあえず代表的部分だけを取り上げて論じてみたい。以下引用。
"この一行を日本への朝貢使節団だと捉えている人がいるが、それはまったくの誤解で、通信使の接待は幕府、沿道の藩が国家的行事としてとり行ない、その経費捻出のため庶民に増税が課せられた。 いずれも徳川将軍が大君、日本国王として丁重に対応している。"
筆者は「朝鮮通信使を朝貢使節と捉えるのはまったくの誤解である」と書いているが、なぜ「まったくの誤解」なのか根拠が "まったく" 示されていない。
もしかして「増税してまで豪華に接待し、将軍が丁寧に対応したのだから朝貢使節ではない」と言いたいのかもしれないが、そんなことは「まったく」根拠にはならない。
朝貢使だろうが冊封使だろうが、他国からの正式な使者であれば丁寧に接するのは当たり前。また当時の外交は見栄の張り合いという側面もあり、接待も豪華なものになりがちだ。さらに言えば天下の将軍様のゲストなのだから、各藩としても粗略に扱えるわけがない。
ちなみに国内の旅費は日本側の負担だが、大使節団を組んで日本に渡航するまでの経費は朝鮮側の負担である。朝貢であろうとなかろうと、多大な費用を費やして遠路はるばるやってきた客人であることも考慮に入れるべきだろう。
この半島系のNGO職員氏は、贈り物を山ほど抱えて遠路はるばるやってきた客であっても、朝貢使のような立場が下の者なら粗略に扱ってもいいと考えているのだろうか。朝鮮儒教ではそれでOKなのかもしれないが、日本には今も昔もそんな無慈悲な思想は存在しない。
ただし、各藩から丁寧に扱われたとは言っても、大勢の一般庶民が二階の窓から通信使行列を見下ろしている絵などが残っており、相手が大名行列なら決してそんなことは許されないことから、少なくとも大名以下の扱いであったと推測できる。
またかの有名な「ニワトリ泥棒の絵」にあるように、沿道の住民とトラブルを起こして百姓町人からボコボコにされることもあったが、警護の侍たちは見て見ぬふりをしていたという文献も残っている。
これ以外にも、朝鮮通信使が朝貢使節に準ずる低い立場であったことを示す資料は多く、また大名に謁見する場合などと比べて、将軍がことさら通信使には「丁寧」だったという資料は見たことがない。あるなら教えて欲しいものだ。
なお冒頭にも書いたように、このエッセイには他にも首をひねりたくなる部分が多いのだが、おそらく理由は、韓国の歴史観を基に書かれているせいだと思われる。
「歴史は日本では学問だが、中国では政治であり、韓国ではファンタジーである」などとよく揶揄されるが、この筆者も韓国のファンタジー教科書で朝鮮通信使について学んだのに違いない。「いったい何を根拠にそんなことを書いているのか」と疑問に思う部分が多いのはそのせいだろう。
毎日新聞もファンタジーを元に歴史を語るエッセイなど載せてもらっては困りますね。
2013/10/27
デタラメな朝鮮通信使再現行列を伝える杜撰なデタラメ記事
2013年10月21日の中国新聞に通信使関連の記事が載っていたので少し突っ込んでみたい。
"衣装鮮やか 通信使再現行列" というタイトルで、毎度おなじみ「友好」だの「交流」などと空疎な美辞麗句をちりばめた朝鮮通信使イベントの紹介記事であるようだ。
行列が行われたのは広島県呉市の下蒲刈島と記事にはあるが、下蒲刈島は通信使船の寄港地に過ぎなかったので、実際には江戸時代に通信使行列など行われなかったと思われる。
しかし記事はそのあたりの背景には触れず、あたかも江戸時代の下蒲刈島で朝鮮通信使行列がにぎにぎしく行われたかのような誤解を与える内容となっている。
また"島内外の住民たち約290人がチマ・チョゴリなど鮮やかな民族衣装をまとい参加" とあるが、朝鮮通信使に女性など参加していなかったのだから、チマを身につけた参加者がいるのは妙である。
そう思って記事に添えられた写真を見ると、チマ・チョゴリを着た女性だけでなく、現代風の改良韓服を着た一団やサムルノリの楽隊まで参加しており、これでは通信使行列と言うよりも、単なる韓国人行列になってしまっている。
にも関わらず記事は「通信使行列の再現」 だの「華麗な歴史絵巻」 だのと書き立てている。デタラメにも程があろうというものだ。
ソース:http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201310210017.html
"衣装鮮やか 通信使再現行列" というタイトルで、毎度おなじみ「友好」だの「交流」などと空疎な美辞麗句をちりばめた朝鮮通信使イベントの紹介記事であるようだ。
行列が行われたのは広島県呉市の下蒲刈島と記事にはあるが、下蒲刈島は通信使船の寄港地に過ぎなかったので、実際には江戸時代に通信使行列など行われなかったと思われる。
しかし記事はそのあたりの背景には触れず、あたかも江戸時代の下蒲刈島で朝鮮通信使行列がにぎにぎしく行われたかのような誤解を与える内容となっている。
また"島内外の住民たち約290人がチマ・チョゴリなど鮮やかな民族衣装をまとい参加" とあるが、朝鮮通信使に女性など参加していなかったのだから、チマを身につけた参加者がいるのは妙である。
そう思って記事に添えられた写真を見ると、チマ・チョゴリを着た女性だけでなく、現代風の改良韓服を着た一団やサムルノリの楽隊まで参加しており、これでは通信使行列と言うよりも、単なる韓国人行列になってしまっている。
にも関わらず記事は「通信使行列の再現」 だの「華麗な歴史絵巻」 だのと書き立てている。デタラメにも程があろうというものだ。
ソース:http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201310210017.html
2013/08/09
韓国人歴史学者が大統領の面前でキチガイ発言
2013年8月8日の朝鮮日報に噴飯モノの記事が載っていたので紹介しよう。
韓国系の新聞は突っ込みどころが多すぎて捌き切れないので、このブログでは扱わない方針であると以前書いた記憶があるが、今回は大統領の面前での発言というところが興味深く、また分量も少ないので取り上げてみることにした。
で、その記事によると韓国のパク・クネ大統領が、国内の人文学界の代表者13人を大統領府に招き、韓国の文化政策などについて意見を求めたそうである。
その席上、大統領は「小さな国が数々の侵略を受けながらも粘り強く5000年の歴史を築けたのは、人文学的な文化の力によるもの。根本的な私たちの魂を形作っている歴史について『誰が正しい、間違っている』という風に分裂し始めれば、どんな努力をしても国民統合は実現できない」 と指摘したという。
つまり既存の歴史観について討論してはいけないという言論封殺宣言だろうか。どうやらそうとしか解釈できないのだが、そんなことでは韓国の歴史学は退歩するばかりだろう。
そもそも韓国に5000年の歴史があるなどという事実無根な妄想を、一国の大統領が真顔で言い放つようでは、すでに韓国の歴史学は死んでいると言っても過言ではあるまい。
さらに同じ席上、史学者のソン・スンチョル教授は、
「通信使は必ず音楽を演奏する楽工や文化・歴史・哲学の大家を伴っており、日本人の好戦的で偏狭な部分を音楽や人文学で純化し、変化をもたらした」 と述べたそうである。
なんという衝撃の新事実!! 驚くべき影響力!
我々の隣国は妄想に取り憑かれたキチガイたちによって運営されているようだ。
ソース:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130808-00001283-chosun-kr
韓国系の新聞は突っ込みどころが多すぎて捌き切れないので、このブログでは扱わない方針であると以前書いた記憶があるが、今回は大統領の面前での発言というところが興味深く、また分量も少ないので取り上げてみることにした。
で、その記事によると韓国のパク・クネ大統領が、国内の人文学界の代表者13人を大統領府に招き、韓国の文化政策などについて意見を求めたそうである。
その席上、大統領は「小さな国が数々の侵略を受けながらも粘り強く5000年の歴史を築けたのは、人文学的な文化の力によるもの。根本的な私たちの魂を形作っている歴史について『誰が正しい、間違っている』という風に分裂し始めれば、どんな努力をしても国民統合は実現できない」 と指摘したという。
つまり既存の歴史観について討論してはいけないという言論封殺宣言だろうか。どうやらそうとしか解釈できないのだが、そんなことでは韓国の歴史学は退歩するばかりだろう。
そもそも韓国に5000年の歴史があるなどという事実無根な妄想を、一国の大統領が真顔で言い放つようでは、すでに韓国の歴史学は死んでいると言っても過言ではあるまい。
さらに同じ席上、史学者のソン・スンチョル教授は、
「通信使は必ず音楽を演奏する楽工や文化・歴史・哲学の大家を伴っており、日本人の好戦的で偏狭な部分を音楽や人文学で純化し、変化をもたらした」 と述べたそうである。
なんという衝撃の新事実!! 驚くべき影響力!
我々の隣国は妄想に取り憑かれたキチガイたちによって運営されているようだ。
ソース:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130808-00001283-chosun-kr
2013/02/08
日本に暦法を教えた通信使が瓊瑶世界で茶の湯を嗜む
毎日新聞神奈川版2013年02月04日付けの記事に、朝鮮通信使に言及したコラムを見つけたので突っ込んでみたい。
『支局長だより』というタイトルで、毎日新聞の各地の支局長が持ち回りでエッセイを書いているようだが、今回執筆を担当したのは横浜支局長で、地元の韓国総領事との交流について綴っている。
それによると、朝鮮通信使の宿泊所として利用された横浜市清水寺の正門には、通信使が揮毫した扁額が掲げてあり、「瓊瑶(けいよう)世界」と綴られているそうである。
「瓊瑶」とは玉のことらしいのだが、玉を意味する漢字が2つ重なっているせいか、横浜の韓国総領事氏はその意味を「二つの玉は互いに光を照らしあって、さらにその輝きが増すという意味」と解釈している。
どうやら日韓関係を暗喩しているらしいのだが、日韓を二つの玉に喩えるには少々違和感がないだろうか。
確かにアジア唯一の先進国日本は「玉」かもしれないが、韓国は南北に真っ二つに割れた石礫じゃあないのか、そんな意地悪な突っ込みも入れてみたくなる。
また「瓊瑶世界」と揮毫した通信使について"第5回朝鮮通信使(1643年)の一員で、日本の学者に暦法などを教えたとされる" と書いてあるが、これにもかなりの違和感がある。
日本には通信使の時代より遥か以前から暦法が存在しているのに、なぜわざわざ改めて朝鮮通信使から教わらなくてはならないのか。
疑問に思って調べてみると、中国にはない朝鮮独特の暦法を伝えたと書かれている資料があるようで、おそらくそれのことを言っているらしいのだが、このような記述では不十分だ。
まるで暦法を知らない日本人に、朝鮮通信使が初めてそれを教えたように誤読する人間もいるのではないか。わざとそのような誤読を誘っているような怪しい記述ですらある。考え過ぎだと言われそうだが、毎日新聞には様々な前科があるので油断は出来ない。
さらに資料を漁ってみると、他にも様々なことを伝えたとする文献を数種発見したが、どれも韓国側の主張であるため信用するに値しない。この支局長も、領事から聞いた話をそのまま垂れ流しているだけなのではなかろうか。
またエッセイの最後の方にも気になる一文があって、"総領事館の中にはこのほど、新たな茶室ができた" そうである。茶室があるということは、韓国領事館の中で茶の湯でも催されているのだろうか。
領事の細君か何かが、高麗茶道とかいう滑稽なパクリ茶道を実演しながら「茶道の起源は韓国ニダー」などと息を吐くように嘘を吐き、横浜支局長が「ははあ、そうなんですか。すごですねー」などと何の疑問も持たず相槌を打っている場面を想像してしまった。
もっとも韓国には、中国の茶礼を元にした茶道の流派もあって、そちらの方は日本の茶道とは似ていない上に起源捏造とも無関係なので許せるのだが、はたして横浜領事館で演じられているのはどちらの流派の茶道なのたろうか。
『支局長だより』というタイトルで、毎日新聞の各地の支局長が持ち回りでエッセイを書いているようだが、今回執筆を担当したのは横浜支局長で、地元の韓国総領事との交流について綴っている。
それによると、朝鮮通信使の宿泊所として利用された横浜市清水寺の正門には、通信使が揮毫した扁額が掲げてあり、「瓊瑶(けいよう)世界」と綴られているそうである。
「瓊瑶」とは玉のことらしいのだが、玉を意味する漢字が2つ重なっているせいか、横浜の韓国総領事氏はその意味を「二つの玉は互いに光を照らしあって、さらにその輝きが増すという意味」と解釈している。
どうやら日韓関係を暗喩しているらしいのだが、日韓を二つの玉に喩えるには少々違和感がないだろうか。
確かにアジア唯一の先進国日本は「玉」かもしれないが、韓国は南北に真っ二つに割れた石礫じゃあないのか、そんな意地悪な突っ込みも入れてみたくなる。
また「瓊瑶世界」と揮毫した通信使について"第5回朝鮮通信使(1643年)の一員で、日本の学者に暦法などを教えたとされる" と書いてあるが、これにもかなりの違和感がある。
日本には通信使の時代より遥か以前から暦法が存在しているのに、なぜわざわざ改めて朝鮮通信使から教わらなくてはならないのか。
疑問に思って調べてみると、中国にはない朝鮮独特の暦法を伝えたと書かれている資料があるようで、おそらくそれのことを言っているらしいのだが、このような記述では不十分だ。
まるで暦法を知らない日本人に、朝鮮通信使が初めてそれを教えたように誤読する人間もいるのではないか。わざとそのような誤読を誘っているような怪しい記述ですらある。考え過ぎだと言われそうだが、毎日新聞には様々な前科があるので油断は出来ない。
さらに資料を漁ってみると、他にも様々なことを伝えたとする文献を数種発見したが、どれも韓国側の主張であるため信用するに値しない。この支局長も、領事から聞いた話をそのまま垂れ流しているだけなのではなかろうか。
またエッセイの最後の方にも気になる一文があって、"総領事館の中にはこのほど、新たな茶室ができた" そうである。茶室があるということは、韓国領事館の中で茶の湯でも催されているのだろうか。
領事の細君か何かが、高麗茶道とかいう滑稽なパクリ茶道を実演しながら「茶道の起源は韓国ニダー」などと息を吐くように嘘を吐き、横浜支局長が「ははあ、そうなんですか。すごですねー」などと何の疑問も持たず相槌を打っている場面を想像してしまった。
もっとも韓国には、中国の茶礼を元にした茶道の流派もあって、そちらの方は日本の茶道とは似ていない上に起源捏造とも無関係なので許せるのだが、はたして横浜領事館で演じられているのはどちらの流派の茶道なのたろうか。
2011/11/23
江戸時代のコスプレ行列を再現する歴史絵巻
11月10日の埼玉新聞に通信使関連の記事を発見した。
埼玉県川越市でここ数年来 行われている「復活!唐人揃い-朝鮮通信使-多文化共生・国際交流パレード」 というイベントの紹介記事で、記事の内容にも少々突っ込み所があるのだが、今回は無視してイベントそのものに少し突っ込んでみたい。
そもそもこのイベント、全国に数ある通信使関連行事の中では少し毛色が変わっている。
主催者によると「唐人揃い」とは、朝鮮通信使を模倣した仮装行列のこ とであり、江戸時代に川越祭りの出し物のひとつとして行われていたそうである。
つまりこのイベントは通信使行列の再現ではなく「通信使行列を模倣した江戸時代の仮装行列を再現する」という、少々ややこしい構造を持っている。
ではなぜそんなものを復活させたのかというと…
――朝鮮通信使は文化交流や平和外交のシンボルである。故にそれを模倣した唐人揃いという出し物を多文化共生や国際交流の大切さを訴えるパレードとして復活させた――
実行委員会のサイトなどを見たところでは、大体こんなような趣旨だと思われるのだが、どこかすっきりしない言い分に感じるのは私だけだろうか。
そもそも根本的な問題として、江戸時代の唐人揃いなる出し物が、朝鮮通信使を模したものであったとする主催者側の主張が、かなり根拠薄弱なのである。
そうであったと書かれた文献などは存在しておらず、またあるサイトには、唐人揃いは朝鮮通信使ではなく、琉球使節を模した仮装行列であったと書かれているが、そちらの根拠には説得力があり、おそらくそれが真相なのではないかと思われる。
またYouTubeなどに上げられているパレードの動画を見た限りでは、多文化共生だの国際交流だのを謳っているわりには、通信使行列を筆頭にサムルノリだの朝鮮舞踊だのとコリアン系の団体が圧倒的に多く、申し訳程度に他の民族衣装を着た人々が雑じっているといった状態だ。
また「唐人揃いの再現」という趣旨の割には「国書交換式」まで行われており、これでは唐人揃いの再現ではなく朝鮮通信使の再現ではないかと突っ込みたくなる。
おそらくは、埼玉は通信使のルートから外れているため、それらに関する史跡は何もないが、それでも何か通信使関連の行事をやりたいと考えた人々が、かつて存在した唐人揃いというイベントを、朝鮮通信使の模倣だったと強弁したのではなかろうか。
在日の韓国朝鮮系の人々は、朝鮮通信使が日本に多くの価値ある文化を伝え、多大な影響を及ぼしたと信じている人が多く、かつそれを日本人に誇示したいという気持ちが強いのだ。そのせいで通信使関連イベントの開催にも非常に熱心な傾向がある。
またイベントの後援団体として、韓国文化院だの民団だの総連だのが名を連ねていることから見ると、本国の意思も大きく関与したイベントであると言えそうだ。要警戒である。
埼玉県川越市でここ数年来 行われている「復活!唐人揃い-朝鮮通信使-多文化共生・国際交流パレード」 というイベントの紹介記事で、記事の内容にも少々突っ込み所があるのだが、今回は無視してイベントそのものに少し突っ込んでみたい。
そもそもこのイベント、全国に数ある通信使関連行事の中では少し毛色が変わっている。
主催者によると「唐人揃い」とは、朝鮮通信使を模倣した仮装行列のこ とであり、江戸時代に川越祭りの出し物のひとつとして行われていたそうである。
つまりこのイベントは通信使行列の再現ではなく「通信使行列を模倣した江戸時代の仮装行列を再現する」という、少々ややこしい構造を持っている。
ではなぜそんなものを復活させたのかというと…
――朝鮮通信使は文化交流や平和外交のシンボルである。故にそれを模倣した唐人揃いという出し物を多文化共生や国際交流の大切さを訴えるパレードとして復活させた――
実行委員会のサイトなどを見たところでは、大体こんなような趣旨だと思われるのだが、どこかすっきりしない言い分に感じるのは私だけだろうか。
そもそも根本的な問題として、江戸時代の唐人揃いなる出し物が、朝鮮通信使を模したものであったとする主催者側の主張が、かなり根拠薄弱なのである。
そうであったと書かれた文献などは存在しておらず、またあるサイトには、唐人揃いは朝鮮通信使ではなく、琉球使節を模した仮装行列であったと書かれているが、そちらの根拠には説得力があり、おそらくそれが真相なのではないかと思われる。
またYouTubeなどに上げられているパレードの動画を見た限りでは、多文化共生だの国際交流だのを謳っているわりには、通信使行列を筆頭にサムルノリだの朝鮮舞踊だのとコリアン系の団体が圧倒的に多く、申し訳程度に他の民族衣装を着た人々が雑じっているといった状態だ。
また「唐人揃いの再現」という趣旨の割には「国書交換式」まで行われており、これでは唐人揃いの再現ではなく朝鮮通信使の再現ではないかと突っ込みたくなる。
おそらくは、埼玉は通信使のルートから外れているため、それらに関する史跡は何もないが、それでも何か通信使関連の行事をやりたいと考えた人々が、かつて存在した唐人揃いというイベントを、朝鮮通信使の模倣だったと強弁したのではなかろうか。
在日の韓国朝鮮系の人々は、朝鮮通信使が日本に多くの価値ある文化を伝え、多大な影響を及ぼしたと信じている人が多く、かつそれを日本人に誇示したいという気持ちが強いのだ。そのせいで通信使関連イベントの開催にも非常に熱心な傾向がある。
またイベントの後援団体として、韓国文化院だの民団だの総連だのが名を連ねていることから見ると、本国の意思も大きく関与したイベントであると言えそうだ。要警戒である。
2011/11/13
通信使が途絶えて200周年を記念する
今回は11月7日の朝日新聞長崎県版の記事を弄ってみたい。
なんでも今年は最後の通信使が朝鮮からやって来て200年目に当たるそうで、彼らに縁のある地域の関係者が対馬に集まって記念の大会を開いたそうだ。
最初の通信使の来日から200年目を記念するならともかく、「最後の到来から200年目」とはこれいかに。それって記念するようなことなのかと突っ込みたくなってしまう。
それはともかく、例によって顎足付きで招待された韓国人たちを交えた通信使パレードも行われ、最後に国書交換式なるものの"再現 "があり、朝鮮通信使の派遣を"世界に誇れる史実" などと礼賛するメッセージを国書に見立てて交換したそうである。
ついでに将軍に贈る貢物の献呈式も再現したらどうかと皮肉のひとつも言いたいところだ。
彼らが行っているのは「世界に誇れる善隣友好使節」という空想物語の上演であって、「朝貢使節の派遣」という史実を再現してはいないのである。
なんでも今年は最後の通信使が朝鮮からやって来て200年目に当たるそうで、彼らに縁のある地域の関係者が対馬に集まって記念の大会を開いたそうだ。
最初の通信使の来日から200年目を記念するならともかく、「最後の到来から200年目」とはこれいかに。それって記念するようなことなのかと突っ込みたくなってしまう。
それはともかく、例によって顎足付きで招待された韓国人たちを交えた通信使パレードも行われ、最後に国書交換式なるものの"再現 "があり、朝鮮通信使の派遣を"世界に誇れる史実" などと礼賛するメッセージを国書に見立てて交換したそうである。
ついでに将軍に贈る貢物の献呈式も再現したらどうかと皮肉のひとつも言いたいところだ。
彼らが行っているのは「世界に誇れる善隣友好使節」という空想物語の上演であって、「朝貢使節の派遣」という史実を再現してはいないのである。
2011/11/10
北斎が描いたのは朝鮮通信使ではなく琉球使節
世界的に有名な浮世絵師、葛飾北斎が描いた「東海道五十三次」の中に外国人らしき人物が登場する画が二つある。
一つが「由井(第十七景)」。旅宿と思われる場所で、僧侶が墨をすり、外国人風の人物が「清見寺」と揮毫している光景だ。
もう一つは「原(第十五景)」で、雄大な富士を横手に眺めながら街道を行く外国人風の集団が描かれている。
これら二つに描かれた外国人が朝鮮通信使であるとする記事やブログをいくつかネット上で見たことがあり、筆者も最近までそう思っていたのだが、どうやら間違いであることに気がついた。
北斎存命中に朝鮮通信使は二度行われたが、一度目は北斎がごく幼い頃であり、二度目は幕府の財政難もあって対馬までしか来ていない。だから北斎はその目で実際に通信使を見てはいないと思われる。
それに比べて琉球使節は北斎存命中に六回、北斎が誕生した1760年から「東海道五十三次」が製作された1804年までの間だけでも三回は日本を訪問している。
また浮世絵とはその時代を活写する風俗画だが、すでに前回の来貢から40年を経た1804年の時点では、朝鮮通信使など古臭い過去の出来事でしかなく、その年に製作された「東海道五十三次」の題材に選ばれるとは考え難い。
それに比べて琉球使節は前回の来訪から八年ばかり、次の江戸上りを二年後に控え、当時の人々にとっては胸躍るようなカレントトピックであったろう。
それら諸々を考慮すれば、北斎の「東海道五十三次」に描かれた外国人は、朝鮮通信使ではなく琉球使節であったと考えるのが合理的というものだ。
一つが「由井(第十七景)」。旅宿と思われる場所で、僧侶が墨をすり、外国人風の人物が「清見寺」と揮毫している光景だ。
![]() |
| 北斎『東海道五十三次・由井』 |
もう一つは「原(第十五景)」で、雄大な富士を横手に眺めながら街道を行く外国人風の集団が描かれている。
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| 北斎『東海道五十三次・原』 |
これら二つに描かれた外国人が朝鮮通信使であるとする記事やブログをいくつかネット上で見たことがあり、筆者も最近までそう思っていたのだが、どうやら間違いであることに気がついた。
北斎存命中に朝鮮通信使は二度行われたが、一度目は北斎がごく幼い頃であり、二度目は幕府の財政難もあって対馬までしか来ていない。だから北斎はその目で実際に通信使を見てはいないと思われる。
それに比べて琉球使節は北斎存命中に六回、北斎が誕生した1760年から「東海道五十三次」が製作された1804年までの間だけでも三回は日本を訪問している。
また浮世絵とはその時代を活写する風俗画だが、すでに前回の来貢から40年を経た1804年の時点では、朝鮮通信使など古臭い過去の出来事でしかなく、その年に製作された「東海道五十三次」の題材に選ばれるとは考え難い。
それに比べて琉球使節は前回の来訪から八年ばかり、次の江戸上りを二年後に控え、当時の人々にとっては胸躍るようなカレントトピックであったろう。
それら諸々を考慮すれば、北斎の「東海道五十三次」に描かれた外国人は、朝鮮通信使ではなく琉球使節であったと考えるのが合理的というものだ。
2011/02/17
東京新聞がまたもや通信使の功績を捏造
かつて「なあに、かえって免疫力がつく」などと馬鹿なことを書いて寄生虫の卵入り韓国産キムチを擁護した東京新聞が、またもや馬鹿をやってくれました。
今回俎上に乗せるのは2011年2月12日東京新聞web版に載った『江戸期の外 交の記録発見「朝鮮通信使」への接待の様子紹介』という記事である。
それによると朝鮮通信使とその饗応役を命じられた藩士との筆談の様子などが記された古文書が、茨城県の旧家で発見されたということで、その筆談の一部が記事中に紹介されているのだが、少し気になる部分を発見したので突っ込んでおこう。
"最後に与兵衛は「方殊(外国)の言は異なるも、詩情は是(これ)同じ」と残し、誠信外交に尽力したことがうかがえる。"
という箇所である。
なぜこの部分から「誠信外交」に尽力したことが窺えるのさっぱり分からないのだ。それ以外の部分を読んでもやはり分からない。おまえただ「誠信外交」と言いたかっただけちゃうかと突っ込みたくなる唐突さだ。
ちなみに「誠信外交」とは朝鮮通信使と関係の深い儒学者が唱えた「誠信交隣」から来ている言葉のようだが、ほとんどの読者は聞いたこともないだろう。そんな一般性のない四文字熟語を何の説明もなくサラリと書かれても困るのだ。
そして大きな突っ込み所は記事の最後にやってくる。
"<朝鮮通信使>(中略)豊臣秀吉の出兵で途絶えた交流の復活を目指した徳川家康が働きかけて実現し、日本の文化や学術に多大な影響を与えたとされる。"
多大な影響キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
馬鹿野郎、寝言は寝て言え。
ただまあ、数年前の東京新聞が「日本の文化や学術に多大な影響を与えた」と断言しているのに比べ、今回は「与えたとされる」となっており、ややトーンダウンしているところに若干の成長が見られると言えなくもない。
今回俎上に乗せるのは2011年2月12日東京新聞web版に載った『江戸期の外 交の記録発見「朝鮮通信使」への接待の様子紹介』という記事である。
それによると朝鮮通信使とその饗応役を命じられた藩士との筆談の様子などが記された古文書が、茨城県の旧家で発見されたということで、その筆談の一部が記事中に紹介されているのだが、少し気になる部分を発見したので突っ込んでおこう。
"最後に与兵衛は「方殊(外国)の言は異なるも、詩情は是(これ)同じ」と残し、誠信外交に尽力したことがうかがえる。"
という箇所である。
なぜこの部分から「誠信外交」に尽力したことが窺えるのさっぱり分からないのだ。それ以外の部分を読んでもやはり分からない。おまえただ「誠信外交」と言いたかっただけちゃうかと突っ込みたくなる唐突さだ。
ちなみに「誠信外交」とは朝鮮通信使と関係の深い儒学者が唱えた「誠信交隣」から来ている言葉のようだが、ほとんどの読者は聞いたこともないだろう。そんな一般性のない四文字熟語を何の説明もなくサラリと書かれても困るのだ。
そして大きな突っ込み所は記事の最後にやってくる。
"<朝鮮通信使>(中略)豊臣秀吉の出兵で途絶えた交流の復活を目指した徳川家康が働きかけて実現し、日本の文化や学術に多大な影響を与えたとされる。"
多大な影響キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
馬鹿野郎、寝言は寝て言え。
ただまあ、数年前の東京新聞が「日本の文化や学術に多大な影響を与えた」と断言しているのに比べ、今回は「与えたとされる」となっており、ややトーンダウンしているところに若干の成長が見られると言えなくもない。
2010/06/11
京都新聞が自爆記事で通信使を逆擁護
今回は平成22年4月9日付けの京都新聞に載っていた朝鮮通信使に関する記事を俎上に載せてみる。
記事のタイトルは、
「通信使『鶏泥棒』ぬれぎぬ? 一部だけ見ず判断を」
「ネットで話題、伏見来訪の絵図公開 市歴史資料館」
というもので、その主旨は、「この絵(図1)からは朝鮮通信使が鶏を盗んでいるとは断言できない。逃げ出した鶏の捕獲に協力している可能性もある、と京都市歴史資料館の人が言っていますよ」といった感じである。
文脈からすると、歴史資料館の呼びかけに応じて記者が取材したように読めるが、はたして事実はどうなのか。
取材前から「通信使は鶏泥棒ではなかったと読者に思わせたい」という思惑があって、それに適合する発言を資料館側から引き出して紙面に貼り付けただけのヤラセ記事の匂いがプンプンする。
資料館のどのような立場の何という人物から聞いた話なのか、具体的には何も書いてないところなどを見てもまとこにアヤシイ。記者に誘導されてペラペラと喋ったものの、学芸員としては責任を持てない発言なので実名を出すことを拒否した可能性もありそうだ。
また(多くのブロガーが指摘しているが)笑わずにはいられないのが、新聞記事に添えられた以下の写真のトリミング具合である。
以下の画像がネット上に広く流通している実際の「鶏泥棒の絵」だが、右側の円内に注目していただきたい。この部分が新聞に掲載された写真からは削除されているのだ。
そしてこの部分を考慮しつつ京都新聞の主張を検証すると、非常におかしなことになってしまう。逃げ出した鶏の捕獲に協力している親切な通信使と、日本人が摑み合いの喧嘩をしており、そこに背後から別の日本人が棍棒で殴りかかっていることになる。
これでは都合が悪いので、トリミングすることで読者の目から隠したのは明白だ。卑怯な情報操作と言われても一言の弁解もできないだろう。
他にも気になる点があって、それは記者がこの「鶏泥棒の絵」をめぐるWeb界の状況をまったく理解していない、もしくは知っていながらわざと矮小化して伝えているところである。
記事はこの絵を"「朝鮮通信使が鶏を盗んだ証拠」として取り上げられることが多い" "ネット上では「鶏を盗んだ」として、当時の朝鮮を非難する材料として取り上げている個人ブログもある" などと紹介しているが、インターネット上でこの絵がクローズアップされるのは、そんな瑣末な理由からではない。
この絵が広く流通しているのは、NHKを筆頭とする売国メディアが暗に主張する「野蛮で遅れた日本に先進の文化や技術を伝えた朝鮮通信使」という噴飯モノのデタラメに対抗するための分かりやすいアイコンとして重宝だからである。
つまり非難されているのは当時の朝鮮ではなく、卑しい歴史捏造に狂奔する現代の韓国や、韓国を賞賛しては悦に入るリベラル気取りの馬鹿どもや、それらに追従する日本の腐れメディアや曲学阿韓の三流学者どもなのだ。
そもそもこんな絵がなくても朝鮮通信使たちの野卑で下劣な振る舞いの数々は当時の日本人が残した文献に数多く残っている。
記事中にも「歴史資料は一部だけを取り上げて断定すべきではなく、ほかの資料と突き合わせるなど慎重な扱いが必要だ」とあるが「ほかの資料と付き合わせる」と、ますます朝鮮通信使が鶏泥棒であった事実が明白となってくるのである。
見事な自爆と言うより他はない。
記事のタイトルは、
「通信使『鶏泥棒』ぬれぎぬ? 一部だけ見ず判断を」
「ネットで話題、伏見来訪の絵図公開 市歴史資料館」
というもので、その主旨は、「この絵(図1)からは朝鮮通信使が鶏を盗んでいるとは断言できない。逃げ出した鶏の捕獲に協力している可能性もある、と京都市歴史資料館の人が言っていますよ」といった感じである。
文脈からすると、歴史資料館の呼びかけに応じて記者が取材したように読めるが、はたして事実はどうなのか。
取材前から「通信使は鶏泥棒ではなかったと読者に思わせたい」という思惑があって、それに適合する発言を資料館側から引き出して紙面に貼り付けただけのヤラセ記事の匂いがプンプンする。
資料館のどのような立場の何という人物から聞いた話なのか、具体的には何も書いてないところなどを見てもまとこにアヤシイ。記者に誘導されてペラペラと喋ったものの、学芸員としては責任を持てない発言なので実名を出すことを拒否した可能性もありそうだ。
また(多くのブロガーが指摘しているが)笑わずにはいられないのが、新聞記事に添えられた以下の写真のトリミング具合である。
![]() |
| (図1)新聞に掲載された写真 |
以下の画像がネット上に広く流通している実際の「鶏泥棒の絵」だが、右側の円内に注目していただきたい。この部分が新聞に掲載された写真からは削除されているのだ。
![]() |
| ネット上で広く流通している写真 |
そしてこの部分を考慮しつつ京都新聞の主張を検証すると、非常におかしなことになってしまう。逃げ出した鶏の捕獲に協力している親切な通信使と、日本人が摑み合いの喧嘩をしており、そこに背後から別の日本人が棍棒で殴りかかっていることになる。
これでは都合が悪いので、トリミングすることで読者の目から隠したのは明白だ。卑怯な情報操作と言われても一言の弁解もできないだろう。
他にも気になる点があって、それは記者がこの「鶏泥棒の絵」をめぐるWeb界の状況をまったく理解していない、もしくは知っていながらわざと矮小化して伝えているところである。
記事はこの絵を"「朝鮮通信使が鶏を盗んだ証拠」として取り上げられることが多い" "ネット上では「鶏を盗んだ」として、当時の朝鮮を非難する材料として取り上げている個人ブログもある" などと紹介しているが、インターネット上でこの絵がクローズアップされるのは、そんな瑣末な理由からではない。
この絵が広く流通しているのは、NHKを筆頭とする売国メディアが暗に主張する「野蛮で遅れた日本に先進の文化や技術を伝えた朝鮮通信使」という噴飯モノのデタラメに対抗するための分かりやすいアイコンとして重宝だからである。
つまり非難されているのは当時の朝鮮ではなく、卑しい歴史捏造に狂奔する現代の韓国や、韓国を賞賛しては悦に入るリベラル気取りの馬鹿どもや、それらに追従する日本の腐れメディアや曲学阿韓の三流学者どもなのだ。
そもそもこんな絵がなくても朝鮮通信使たちの野卑で下劣な振る舞いの数々は当時の日本人が残した文献に数多く残っている。
記事中にも「歴史資料は一部だけを取り上げて断定すべきではなく、ほかの資料と突き合わせるなど慎重な扱いが必要だ」とあるが「ほかの資料と付き合わせる」と、ますます朝鮮通信使が鶏泥棒であった事実が明白となってくるのである。
見事な自爆と言うより他はない。
2009/12/05
「朝鮮通信使」行事の真の狙い
2008/12/31
過大評価進む朝鮮通信使
今の韓国人たちは、朝鮮通信使が国賓だったと思い込んでいる。しかし江戸の人たちは、通信使が朝貢使節であり、オランダ商館長よりも格下だったことを知っていた。
ざわめく沿道の人々の中を、珍妙な衣装に身を包んだ数百人の朝鮮人たちが進む。入浴の習慣がないので異臭が周囲に漂っている。素行の悪い彼らによる周辺住民とのトラブルを恐れ、警護の侍たちもピリピリしている。
一方、オランダ商館長の一行はわずかに4~6人、役人たちに手厚く警護されながら、気ままに江戸の町を散策する。決定的な違いは、江戸城における徳川将軍との接見のありようである。
その一挙手一投足までもが厳格に規定され、遠く離れた場所から将軍に平伏させられる通信使たちに比べ、オランダ商館長の謁見は簡略化されて気楽なものである。商館長は将軍の前に出ると、西洋の事情などについて質問を受けることもあったようだ。
江戸時代において外国人は珍しく、たとえ弱小国から来た朝貢使節に過ぎない朝鮮通信使であっても、庶民たちにとっては大人気の見世物であった。庶民が気安く近づいて墨跡などをもらうことも出来たようで、このことからも国賓という扱いではなかったことが見てとれる。
江戸という時代は日本と半島における交流史の中でもひときわ疎遠な時代だったと言えそうである。なにしろ通信使たちは徳川250年の歴史の中でたった十二回しか来ておらず、両国の貿易窓口も対馬藩だけに限定されていた。
その間、両国にこれといった波風が立たなかったのは、通信使による交流があったからではなく、疎遠であったからこそであるというのが正解だろう。朝鮮半島に深く関わるとろくなことがないのは歴史が教えるところである。
最近になって、韓国は朝鮮通信使の過大評価の動きをますます加速させているようだ。お世辞にも素行がよいとは言えず、文化的にも文明的にも遙かに劣る国から来た朝鮮通信使を、まるで日本の文化発展に多大な貢献をした大恩人であるかのように歪曲しているばかりか、"明治政府によって通信使の偉大な事跡が消去され、教育の場で歪曲された" などと妄想し、噴飯物のデタラメ記事を載せる新聞まで現れた。
韓国メディアが通信使を礼賛すればするほど、それを評価しない日本に対する韓国人の憎悪は高まっていくだろう。厄介なことである。
※基本的にはこちらの妄想記事のパロディとして書かれたものなので、史実としては多少不正確な部分があることをお断りしておきます。
ざわめく沿道の人々の中を、珍妙な衣装に身を包んだ数百人の朝鮮人たちが進む。入浴の習慣がないので異臭が周囲に漂っている。素行の悪い彼らによる周辺住民とのトラブルを恐れ、警護の侍たちもピリピリしている。
一方、オランダ商館長の一行はわずかに4~6人、役人たちに手厚く警護されながら、気ままに江戸の町を散策する。決定的な違いは、江戸城における徳川将軍との接見のありようである。
その一挙手一投足までもが厳格に規定され、遠く離れた場所から将軍に平伏させられる通信使たちに比べ、オランダ商館長の謁見は簡略化されて気楽なものである。商館長は将軍の前に出ると、西洋の事情などについて質問を受けることもあったようだ。
江戸時代において外国人は珍しく、たとえ弱小国から来た朝貢使節に過ぎない朝鮮通信使であっても、庶民たちにとっては大人気の見世物であった。庶民が気安く近づいて墨跡などをもらうことも出来たようで、このことからも国賓という扱いではなかったことが見てとれる。
江戸という時代は日本と半島における交流史の中でもひときわ疎遠な時代だったと言えそうである。なにしろ通信使たちは徳川250年の歴史の中でたった十二回しか来ておらず、両国の貿易窓口も対馬藩だけに限定されていた。
その間、両国にこれといった波風が立たなかったのは、通信使による交流があったからではなく、疎遠であったからこそであるというのが正解だろう。朝鮮半島に深く関わるとろくなことがないのは歴史が教えるところである。
最近になって、韓国は朝鮮通信使の過大評価の動きをますます加速させているようだ。お世辞にも素行がよいとは言えず、文化的にも文明的にも遙かに劣る国から来た朝鮮通信使を、まるで日本の文化発展に多大な貢献をした大恩人であるかのように歪曲しているばかりか、"明治政府によって通信使の偉大な事跡が消去され、教育の場で歪曲された" などと妄想し、噴飯物のデタラメ記事を載せる新聞まで現れた。
韓国メディアが通信使を礼賛すればするほど、それを評価しない日本に対する韓国人の憎悪は高まっていくだろう。厄介なことである。
※基本的にはこちらの妄想記事のパロディとして書かれたものなので、史実としては多少不正確な部分があることをお断りしておきます。
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