2012年12月26日付けの長崎新聞のコラム「水や空」が、"今こそ「誠信の交わり」を" と題して、このブログでも何度か俎上に乗せた雨森芳洲と朝鮮通信使について触れている。
まずコラムの冒頭近く、朝鮮との交渉に際して雨森芳洲が、"秀吉の出兵は「両国無数の人民を殺害した」「暴悪」と考える歴史認識を示した" として、そのことで両国の関係改善が急速に進んだように書いている。「現代の日本政府も韓国側の歴史認識を認めろ」と言いたげな胡散臭い記述である。
しかし当時の徳川政権下において秀吉の所業を批判するなどは、ほとんどリスクのない安全な行為であり、河野談話のような馬鹿発言で後々まで祟られる現代とはまったく事情が異なるだろう。
またコラムは例によって、芳洲が提唱した"「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる」という「誠信の交わり」" を賞賛し、誠信外交で対応したことが通信使来訪の継続に大いに寄与したかのように綴っている。
しかし当時の日朝関係は数々の嘘の上に成り立っていた。
例えば幕府と李朝の仲介をした対馬藩は、両者の間でやりとりされる国書の偽造や改竄を何度も繰り返した事実がある。朝鮮人の(無駄に高い)プライドを傷つけてヘソを曲げられないためにである。
しかも国書偽造が発覚しても、幕府は対馬藩主を強く咎めることはなかった。それどころか「余計なことをするな」という訳だろうか、偽造を告発した対馬の家老を島流しの刑に処している。
また江戸城において徳川将軍に平伏する際、朝鮮の正使たちは「将軍に平伏しているのではない。目の前にある朝鮮王の国書に平伏しているのだ」などと解釈することで屈辱感を糊塗したらしい。弱小国の根拠なきプライドとは言え、内心では日本を侮蔑しきっていたのである。
また日本において通信使たちは「朝貢使節」と認識されており、一般庶民たちからは軽く見られていたようだ。通信使たちもそのことは薄々知っていたが、波風が立つのを避けるため知らないフリをしていたという。
以上のように日朝が、お互いに上手に嘘をつき合いながら、微妙なバランスの下に実現していたのが「朝鮮通信使の来貢」なのである。言葉通りの「誠信外交」などやっていては実現可能だったかどうか怪しいものだ。
コラムは最後に"誠信の交わり」に徹すれば" "ぎくしゃくした日韓関係を立て直す" ことは可能であると〆ているが、そんなわけねえだろと突っ込んでおきたい。
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